有機導体の研究は1970年代初めに電気伝導性が良く金属的なふるまいをする有機結晶が合成されて以来、精力的に研究が進められてきた。多くの有機導体において伝導帯は低次元性をもち、バンド幅が電子間反発のエネルギーと同程度になりやすい事から、強相関電子系の研究対象として低次元有機導体は有力な物質である。電子相関は、金属−絶縁体転移、反強磁性、超伝導等を引き起こす原因であり、今日の固体物理学における中心課題の一つである。低次元有機導体においても基底状態はCDW、SDW、超伝導、反強磁性絶縁体など多彩である。
本研究では、これら低次元有機導体のうち、擬1次元導体DCNQI-Cu塩及び擬2次元導体BEDT-TTF塩(ET塩)を取りあげ、これらの電子状態について強相関電子系という立場から高分解能光電子分光及びX線吸収分光、X線光電子分光による研究を行った。DCNQI-Cu塩はDCNQI分子のp p 軌道が作る1次元的伝導帯とこれらを繋ぐCu 3d
軌道の混成によって多彩な基底状態をとり、単純な1次元的金属と異なった物性を示す。また、ET塩のうち、本研究で取り上げたk-(ET)2Cu(NCS)2 (NCS塩)、k-(ET)2Cu
[N(CN)2]Br (Br塩)、 k-(ET-d8)2Cu[N(CN)2]Cl
(d8-Cl塩)、 a-(ET)2KHg(SCN)4 (KHg塩)はET分子のp p軌道からなる2次元伝導帯に正孔が1/4詰まった擬2次元導体であるが、NCS塩、Br塩、Cl塩はET分子が強くダイマー化している事から半分電子が詰まった伝導帯を持ち、モット転移近傍に位置する反強磁性絶縁体あるいは超伝導体で、電子相関の強い物質ではないかと提唱されている。一方KHg塩は1/4正孔が詰まった伝導帯を持つ金属で電子相関はそれほど強くないと考えられている。本研究で得られた結果は以下の通りである。
常圧下約80 Kで金属−絶縁体転移を起こす(DMe-DCNQI-d7)2Cu (d7体)について、非占有伝導帯の電子状態及びその対称性を調べるためにN 1s 及びCu 2p 内殼X線吸収分光(XAS)を、直線偏光を持つ放射光軟X線を用いておこなった。N
1s XASスペクトルは、最低非占有軌道への遷移によるピークが強い偏光依存性を示した。この偏光依存性は、非占有軌道の分子軌道の対称性のみでは説明できず、分子軌道で構成される1次元的伝導帯の異方性によるものであると結論し、伝導帯の擬1次元性を確認した。また、N
1s XASスペクトルを第一原理によるバンド計算と比較したところ、比較するエネルギースケールの範囲内でおおむね一致する事がわかった。
Cu 2p XASスペクトルでは、Cu1+及びCu2+サイトからの寄与と思われる両方のピークが観測され、Cuが価数揺動状態である事を確認した。スペクトルの偏光依存性はCu
2p XASスペクトルでも観測された。Cu 3d 軌道に空いているホールは殆どが3dxy 軌道にあると従来考えられていたが、本研究で測定したスペクトルでは、確かにホールは3dxy 軌道に一番多いものの、他の3d 軌道(3dyz、3dzx)軌道にも無視できない量のホールがある事がわかった。金属相と絶縁相の間でCu
2p XASスペクトルは変化し、絶縁相のスペクトルではCu2+によるピークの強度が金属相のそれと比べて増大した。この事は、金属から絶縁体に転移する際にCuの平均価数が増大する事を示している。
DCNQI-Cu塩の価電子帯全体の電子状態を調べるために、(DMe-DCNQI-h8)2Cu (h8体)について価電子帯X線光電子分光を行い、また特定の原子軌道の寄与が明らかにできる共鳴光電子分光を試みた。N 1s、Cu 2p 吸収領域の励起光で価電子帯光電子分光を行ったところ、どちらの励起光の場合でも明確な共鳴光電子放出は観測されず、代わりにオージェ遷移による構造が強く観測された。又、それぞれの原子軌道の光イオン化断面積の励起光エネルギー依存性の違いを利用して、様々な励起光の光電子スペクトルを比較する事でDCNQI分子のsp s軌道が約5 eVより高い結合エネルギーに、sp p軌道は約10 eVより低い結合エネルギーに、Cu 3d 軌道は約1.5 eVの結合エネルギーに位置する事がわかった。
純粋な1次元金属の伝導電子はフェルミ液体(FL)とならずに朝永−ラッティンジャー液体(TLL)となる事が理論的に知られている。現実の擬1次元導体において伝導電子が朝永−ラッティンジャー液体が実現しているかどうかは非常に興味ある問題であるが、光電子分光は現在のところそれを確かめる唯一の手段である。そこでDCNQI-Cu塩について様々な温度で高分解能光電子分光を行い、朝永−ラッティンジャー液体の実験的検証を行った。金属相で得られたフェルミ準位
(EF )
以下約2 eVまでの光電子スペクトルと前述のバンド計算を比較したところ、EF 近傍では不一致が顕著で、TLLに対して予言されている、結合エネルギーのべき乗に比例するような形状になった。さらに定量的に解析したところ、EF から少し離れた結合エネルギー領域では伝導電子は1次元TLL的に振る舞うが、EF
のごく近傍ではわずかながら有限の強度が残り、3次元的FLとして振る舞っている事がわかった。さらにこの傾向が低温になるほど顕著になる事が示された。この事からDCNQ-Cu塩において、温度及び結合エネルギーの変化による伝導電子の1次元性と3次元性のクロスオーバーが生じていると結論した。(注:「クロスオーバー」とは明確な相転移を経ないで状態が変化する事を意味する)
d7体については絶縁相でのスペクトルを測定し、金属相のスペクトルと異なり、少なくとも0.1 eV程度のエネルギーギャップが開いているのが観測された。このエネルギーギャップは平均場近似によって転移温度から計算されるCDWギャップに比べて3倍以上大きくなっている。この事はDCNQI-Cu系の相転移が強結合CDWによるとみなせる事を示唆している。
先に述べたNCS塩、Br塩、d8-Cl塩、KHg塩について高分解能光電子分光を行い、価電子帯及びフェルミ準位近傍の電子状態を調べた。エネルギーの異なる励起光によるスペクトルを比較して、各原子軌道の価電子帯スペクトルへの寄与を推定した。どの塩のEF 近傍のスペクトルでもEF 上での強度は弱いが、KHg塩については明瞭なフェルミ端がET化合物としては初めて観測された。金属(低温では超伝導)であるNCS塩、Br塩では絶縁体(低温では反強磁性)であるd8-Cl塩のスペクトルと非常に類似したスペクトルが観測され、EF 上での強度は非常に弱く絶縁体であるかのような形状が得られた。
これらのスペクトルを分子内クーロン相互作用を取り入れたハートリー・フォック近似バンド計算(HF計算)と比較したところ、どの塩のスペクトルでもEF 近傍での強度はHF計算よりも減少している事がわかった。また、KHg塩及び絶縁体であるd8-Cl塩のスペクトルとHF計算との不一致はそれ程大きくないが、NCS塩及びBr塩のスペクトルはHF計算との不一致が非常に大きく、定性的にも計算が実験のスペクトルを説明しない事がわかった。これらの不一致の原因は、HF計算に取り込まれていない電子相関の効果による。電子相関が比較的弱いと考えられているKHg塩においても、長距離の相関が重要である事がスペクトルから結論され、キャリアー濃度が小さい事からクーロン反発の遮蔽効果が小さくなり電子間クーロン相互作用が長距離力になっているためではないかと考えた。しかし、NCS塩、Br塩について実験と計算の不一致の度合がKHg塩よりも非常に大きい事から、長距離クーロン相互作用だけでは説明がつかず、これらの塩が相図上モット転移近傍にありモット転移に近いために、金属であっても長距離相関が発達しているためではないかと考えた。すなわち、この系では金属−絶縁体転移点で急激に光電子スペクトルが変化するのではなく、転移の前から長距離相関が発達し、転移の近傍に位置するNCS塩やBr塩では絶縁体であるかのようなスペクトルになると考えた。
以上の議論を定量化するために、HF計算を出発点にしてモデル自己エネルギーを取り入れたスペクトル計算を行った。その結果、KHg塩及びd8-Cl塩のスペクトルは同程度の長距離相関を取り入れる事でスペクトルを再現できたが、NCS塩及びBr塩についてはさらに非常に強い長距離相関を取り入れないとスペクトルを説明できない事がわかり、上記の議論を裏付ける結果を得た。
これらET塩のうち、KHg塩及びNCS塩のスペクトルをいくつかの温度で測定したところ、通常では見られない温度変化が観測された。このうち、広いエネルギースケールで観測された温度変化は、高温における表面の不安定性による事がわかったが、NCS塩におけるフェルミ準位近傍のスペクトルの温度変化は本質的なものであり、その徴候はKHg塩及びd8-Cl塩にも見られた。これらの温度変化は物性の違う塩に同じ傾向で観測され、かつ200
K以下では基本的にスペクトルが変化しない事から、電子相関の温度変化によるのではなく、昇華温度に近い室温における激しい格子振動に由来すると推測した。